「取引」で終わる関係と、そうでない関係

人との関わりが止まってしまうとき、たいてい何かを数えはじめている気がします。
「これだけやってあげたのに」「あのとき助けたのに」。そういう気持ちが出てきた時点で、その関係はもう取引に近くなっているのだと思います。

取引には、貸し借りの帳尻があります。だから、与えたものと返ってきたものの収支が合わなくなった瞬間に、関係を続ける理由が消えてしまう。
悪いことではありません。仕事の多くは取引でできています。ただ、取引としてだけ見ている関係は、バランスが崩れたところで自然に止まる、というだけのことです。

逆に、長く続いている関係を思い返すと、自分はそこで何も数えていませんでした。
何をどれだけやったか覚えていないし、相手が何を返してくれたかも数えていない。それでも、なぜか続いている。数えていないからこそ続いている、という逆説があるように感じます。

数えはじめた瞬間に、関係は取引になる

見返りを計算しはじめると、相手も同じように計算しはじめます。お互いが帳尻を見るようになると、関係は損得の話に変わっていきます。

数えないというのは、お人好しになることではありません。この相手とは収支で付き合わない、と自分の中で決めておくことだと思っています。

「ありがとう」が往復する関係に、積み上がっているもの

続く関係には、一方通行ではない感謝があります。
こちらが「ありがとうございました」と言い、相手も「こちらこそ、あのときは」と返してくれる。その往復が、何かのきっかけがあるたびに何度でも起きる。これが、自分の感じている「続く関係」のかたちです。

では、そこに積み上がっているものは何か。
結果や実績ではないように思います。積み上がっているのは、相手の負担を、先に少しだけ引き受けた記憶です。頼まれる前に動いた。相手が困る前に手を打った。その小さな積み重ねが、お互いの中に残っていく。

自分はずっと、サービスとは相手の負担を肩代わりすることだと考えてきました。それは仕事の話だと思っていたのですが、人との関係でも同じなのかもしれません。
先に相手の負担を引き受けた回数が、そのまま「ありがとうを返したくなる」気持ちの厚みになっていく。そういう順番なのだと思います。

サービスとは、相手の負担を先に引き受けること

見返りを期待して引き受けると、それは取引に戻ります。期待せずに引き受けたものだけが、相手の中に記憶として残るのだと思います。

続く関係は、立派な実績ではなく、こうした小さな引き受けの積み重ねでできているように感じています。

自分が「ありがとうを返したくなった」とき

自分の話をします。
体を痛めてまともに動けなかった時期がありました。そのとき、頼んだわけでもないのに動いてくれた人たちがいました。「大丈夫ですか」と声をかけるだけでなく、こちらが言い出す前に、必要なことを先に進めておいてくれる。

そのときに自分の中に残ったのは、「借りができた」という感覚ではありませんでした。
もっと素直に、「この人たちに、いつか返したい」という気持ちでした。貸し借りの帳簿ではなく、返したいという気持ちのほうが先に立っていた。あの感覚が、たぶん「ありがとうを返したくなる関係」の正体なのだと思います。

演出された親切では、こうはならなかったはずです。見返りを前提に近づいてくる動きは、受け取る側にはなんとなく分かります。
そうではなく、ただ淡々と、こちらの負担を先に引き受けてくれた。だからこそ、返したくなった。自分がしてもらって嬉しかったことを、今度は自分が誰かにしていく。その連鎖がいちばん続くのだと、いまは思っています。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。